いたずらフィガロ

むかしのアメリカのマンガについて。

リトル・ニモと歓迎会

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 1906年5月13日『ニューヨーク・ヘラルド』の「眠りの国のリトル・ニモ」です。

 

 今回は王様が電報を手にしています。だいたい、以下のようなことが書かれています。「ニモは夜の8時30分に着陸し、人々の熱狂のなか、お菓子クイーンズのバニラ、パイナップル、チョコレート、ストロベリーに出迎えられるも、ニモは眠りを保つことができず」。

 

 マンガのなかの手紙というのは、なんか面白いものだなあと思います。ふきだしの文字とはちがって、手紙の文字は物語世界のなかに物質的に存在するものであり、また手紙の文字があるということは、それを書いた人が物語世界のなかにいるわけで、その人物の痕跡を文字がまとっているように感じます。上の筆記体はマッケイが書いたものでしょうが、マッケイとは別の、物語世界のなかでこれを書いたことになっている人(王様の家来)の痕跡ですね。ふきだしの文字には、それを発した人物の痕跡を感じることはほとんどないんですが。音声記号だからでしょうか。

 

 それと、手紙が描かれるということは、手紙を送る人と受け取る人の関係や、受取人が手紙を読んでいる理由などが、読者にとってすぐにわかることが必要だとも思います。つまり手紙をめぐる人々がどういう人々なのか、読者はその手紙の絵を見るときにすぐわからないと、その手紙の意味を理解しづらい。

 

 上の場合ですと、わたしたちはこの手紙を読んでいる人が王様で、手紙を書いたのは家来で、ニモのことを王様に逐一伝えていると、すぐにわかります。なんでわかるかというと、これまでのエピソードで王様や家来が何をしているか知っているからです。

 

 絵のなかに手紙が描かれるのがいつからなのかはわかりませんが、どんな絵にせよ、手紙を読む人や書く人についての情報を入れてくるはずで、その点、絵のなかの手紙に関する情報を他の絵で(他のコマとか他のエピソードとかで)補うことができるマンガは、手紙を描きやすいメディアなのかもしれません。

 

 どうでもいいですがお菓子クイーンズ(Confection Queens)はもっと個性的な面々でもよかったんではないか。それと、いちばん下のコマの「今夜はステキな夜になりそうだぜえ」って歌ってるバンジョーの男に対してでしょうか、ニモは「あいつこっち来んな」と言ってます。そこまで言わなくても...。まあ、こういう喧噪は自分を夢から覚ましてしまうと、ニモも承知しているんでしょう。