いたずらフィガロ

むかしのアメリカのマンガについて。

リトル・ニモと牡蠣みたいな顔

f:id:miurak38:20200430151137j:plain

 1908年2月2日『ニューヨーク・ヘラルド』の「眠りの国のリトル・ニモ」です。

 

 ニモたちは前回、自分たちの姿が無限複製される「鏡の間」にいましたが、今回は自分たちの体が伸び縮みする場所にやってきました。これも鏡のトリック(映すものを変形させる鏡)を思い起こさせますが、もしかしたらニモたちが実際にこのように変形してしまっているのかもしれません。

 

 1コマ目から4コマ目まで、コマがどんどん縦に長くなっていきます。それにあわせてニモたちの首から下がどんどん伸びています。

 

 5コマ目からは逆に、コマの縦幅がどんどん短くなり、ニモたちの体の長さも縮みます。ただし顔はむしろ長く伸びてしまって、グロテスクなことになっています。ニモの「インプの顔が牡蠣みたいだ!」というセリフがおもしろいですね。まあ牡蠣もグロテスクな見た目ですしね。

 

 体の長さを変化させるのにあわせてコマの長さまで変えてしまうのが、いかにもマッケイらしいというか、クロースアップの技法がほとんど見られないこの時代らしい感じです。

 

 キャラクターの顔がクロースアップで描かれるようになるのは(もちろん網羅的に調査したわけじゃないですが)だいたい1920年以降かなあという印象です。とくに1924年開始のロイ・クレイン「ウォッシュ・タブス」(Roy Crane, Wash Tubbs - Wikipedia)は、クロースアップに意識的なマンガだと思います。

 

 それと、いまのマンガのコマ割りでは、物語の重要な場面(筋のうえでの決定的な局面とか、重要人物の心理描写とか)に、大きなコマを使ったり、コマをたくさん使ったりすると思いますが、マッケイの場合はあまりそんな感じじゃないですね。

 

 上のエピソードの場合でも、たしかに物語の内容にあわせたコマ割りではあるのですが、それだけではなく、純粋に幾何学的な意図で紙面を割っているのではと思わされます。きれいなグリッドをつくって、積み木のパズルのようなコマを組み合わせ、全体として点対称の紙面を構成しています。このあたり、非物語的というか、物語に関係ないコマ割りと言いたくなります。

 

 ところでこのエピソードで思い出すのは、この3年後にマッケイがつくるアニメーション「リトル・ニモ」(https://www.youtube.com/watch?v=K8qow7jTyoM)です。ここでもニモたちの体が伸び縮みしていて、マッケイはこの映像イメージを紙面に生み出したかったのかなと感じます。