ジグスとパイプ
1913年1月10日『オマハ・デイリー・ビー』(上)と、1913年1月17日『リッチモンド・パラジウム&サン・テレグラム』(下)に掲載された「親爺教育」です。
前回の「親爺教育」記事で言うのを忘れてましたが、「親爺教育」はマッケイのマンガとはちがって、全米各地の新聞に掲載されていました。
「リトル・ニモ」や「レアビット」の頃は、各新聞社がそれぞれ漫画家をかかえていました。マッケイはニューヨーク・ヘラルド社から給料をもらっていたわけです。
でも1910年代になるとマンガ専門の「シンジケート」=新聞記事配信会社が勢力を伸ばします。各新聞社にとっては、自社の漫画家の人件費を払うより、シンジケートからマンガを購入する方が安上がり、という判断だったと思います。
「親爺教育」もスター・カンパニーというシンジケートのマンガで、このシンジケートを経営していたのは新聞王ハーストです。新聞紙面にマンガをどんどん導入した人です(のちにマッケイもハーストのもとで働くようになります)。
上のエピソードは、自宅でパーティーを開いているところに、ジグスが旧友の労働者をつれてきてパーティーを台なしにする、という話です。
1コマ目に息子がいますね...前の記事で「もう出てこない」と言ってしまいましたが。それとジグスは妻のことを「マギー」と読んでいます。ただ、マギーは自分の名前を人前でそう呼ばれたくないようです。
下のエピソードもパーティー直前の場面です。ジグスはシャツを着替えるのですが、シャツがきついので「マギーが息子のとまちがえたんだな」と言って、シャツを脱いだまま客の前に出てしまいます。「ねえマギー ...あ、いや、マーガレット、シャツまちがえてるよ」。
19世紀西洋では「上流階級はパイプでタバコを吸わない」というイメージがあったそうなので(パイプ (たばこ) - Wikipedia)、パイプをくわえたままなのもダメだったみたいです。じつは1コマ目で、ジグスはマギーに「パイプ持ってこないでよね」と釘をさされているのでした。
パイプのアメリカ人といえばやっぱりGHQのマッカーサーですが、パイプに備わるイメージの歴史を辿ってみるのもおもしろそうです。